十年前の三月だった。あるデザイナーの写真展が東京杉並区の上井草で開かれた。僕は生後半年ほど下井草に住んでいたことがあるらしい。僕は両親から聞き出した当時の住所を頼りに下井草に立ち寄って、少し遅れて上井草の会場に駆けつけた。すでに顔見知りの人達が集まっていた。僕は道すがら眺めた季節の移ろいをその場の人達に告げた。
「吉祥寺のあたりで、もう桜が咲いてたよ」
会場にいた人達がこちらを振り向いた。
「もう春ですね!」
確かにそのとおりだった。けれど、僕が言わんとしたことは少し違っていた。商業コマーシャル写真家の女性だけは、鑑賞していた展示作品から視線を外して、人の心を見透かすように言った。
「もうこの季節も終わっちゃうな」

「最近私、この言葉を気に入ってるんですよ。足るを知るって、知ってますか?」
同じように十年近く前、その女性写真家が言っていた言葉を今でも思い出す。思い出すのはその会話の前後や背景ではない。欲は捨てちゃだめです、とその人が僕にアドバイスをくれたあと、相反するようなその格言を幾度となく思い返した。
ピラミッドのような社会の山を自分の意思で登っていくと、不意に雲が晴れてさらに高い地点が見えてくるかもしれない。あそこに着いたらもっと違う世界が見えるかもしれないなと希望を抱くかもしれないし、先の長さや高さを感じてどっと疲れが出るかもしれない。いずれにしても登って来なければその先を見ることはできなかったかもしれない。上へ上へと登っていく度に、山はひとつではなくもっと他にもたくさんの山が聳えていることに気づくかもしれない。双眼鏡を覗くと、向こうの山には座って登れるリフトがあることにがっかりするかもしれない。今さら他の山に乗り換えたいと思っても、下山して登り直すのはもっと難しいかもしれない。途中でリフトが止まってしまうリスクも考えられるかもしれないし、リフトは高額な乗車賃が求められるのかもしれない。そんな向こうの山のちょうど同じような地点にいる人が、ハローと手を振ってくれているかもしれない。ぐるりと周囲を見渡すと、世界はことのほか広いのだと自分の無知に気づけるかもしれないし、世間は思いのほか狭いのだと俯瞰も出来るかもしれない。世界と世間を混同していたことにも気づけるかもしれない。そうして少しずつ視座が高くなっていることにも気づけるかもしれないし、いつしかその道程と現況は他人と比較することなく受け入れられるようになっているのかもしれない。足るを知る、とはだいぶ違うとは思うけれど、その格言が彼女の心を支えていたのは間違いないかもしれない。

商業写真家の女性が手掛けた仕事の話にも花が咲いて、春を迎えようとしていた上井草では、写真も本気なグラフィックデザイナーによるアイスランドの風景写真が展示されていた。その雪景色に視線を向けていた女性写真家の背中に僕は目を遣った。冬生まれのその人の誕生日はたまたま僕と三日違いだった。年齢の数字は遥かに僕の方が多いけれど、年齢と人生経験と語彙の豊富さは比例しない。僕はその冬に目にした氷結した山中湖の風景も脳裏で重ねながら、過ぎ去る季節を惜しむようなその人の横顔に言った。
肌がツンとするようなあの空気。
そうそう。
音がしないようなあの感じ。
そうそう。
以下の質問にホントかウソか、のどちらかで答えよ。雪は望みと哀惜の混合雑種である。/『グレープフルーツ・ブック』オノ・ヨーコ
