Convenience

あれ? もう治ったんですか? と最寄りのコンビニでレジのスタッフさんは言った。まだ治ってないんです、と僕は答えた。じゃあ、してなきゃだめじゃない、とスタッフさんが言ったので、現実を受け入れたくないんですよ、と僕は答えた。あはは、と笑ったスタッフさんは、小指って案外使ってるんですよね、と言った。そうそう、ペンタブレットのペンを持つと支えにしてるみたいで、あと、お米を研げないし、電車の吊り革を掴むときにも痛いんです、と僕は正直に答えた。だからしてなきゃだめって言ってるじゃない、とスタッフさんは呆れるように腰に手を当てた。明日からそうする、と言って僕はひとこと付け足した。お仕事中、使ってないようで、使ってると思いますよ、小指、気をつけないと。するとそのスタッフさんは足元を指差した。私、足の薬指を骨折したことがあって、だから案外痛いのわかります。聞いてるだけで痛くなってきた!と僕は言った。お互いさまでしょ! とスタッフさんは言い返した。ピーッとコーヒーマシンが音を立てた。コーヒーマシンからカップを取り出そうとしたとき、ほら、痛い方の手を使ってない? とスタッフさんは指摘した。僕の右手の小指にはヒビが入っていて、面倒だったので包帯などを一時的に外していたのだ。左手でカップを持って、おつかれさま、と言ってお店を出るとき、まるで看護師のようにスタッフさんは言った。お大事に!

数年前、出先からそのコンビニに電話をかけたことがあった。僕の財布、落ちてませんでした? 電話から聞こえる声は投げやりに言った。はいはい、ありますよ、台の上に置きっぱなしだったからお預かりしています、しっかりしてよ、もう、ボケちゃったんじゃないの? 一時間後、そのコンビニに戻って、会計の列に並んだ。同じくらいの身長でやけに体脂肪率が低そうな金髪の男性が僕の前に並んでいた。その人の会計が終わり、レジのスタッフさんは何も言わずにバックヤードに姿を消して、しばらくして戻ってきた。スタッフさんは僕の財布を差し出しながら言った。預かり手数料、お財布から抜いといたから。どうもありがとう、と僕は答えてスタッフさんに訊いた。今の人、誰か知ってた? スタッフさんはきょろきょろと辺りを見渡した。え? なに? もしかして、有名人? そのとき出入口のドアが開いて、新たに男性がひとり店内に入ってきた。僕はその人に向かって、おつかれさまです、と言った。うぃっす、とその人は片手を挙げた。やだー、なに? 今の人、誰? とスタッフさんは言った。聞きたい? と僕はスタッフさんに訊いた。聞きたい、聞きたい、とスタッフさんは身を乗り出した。情報提供料は、Mサイズのブレンドで、と僕は言った。そういうのいいから、早く言いなさいよ、とスタッフさんは急かした。今の人は、サッカー元日本代表のゴールキーパー、と僕は答えた。うそ! じゃあ、さっきの人は? とスタッフさんは言った。サッカー元日本代表で日韓ワールドカップのときに豪快にゴールを決めたヒーロー、と僕は答えた。よくわからないから、帰ったら旦那に聞いてみよう、とスタッフさんは言った。うん、それがいいね、彼らは今、ここの地元サッカーチーム所属だから、このお店のお得意様になる、と僕は答えた。そうなの? あ、だったら、在庫切らしちゃいけない商品とかあるかもね、いいこと聞いた! とスタッフさんは祈るように胸の前で両手を合わせた。うん、まだボケてないみたいよ、と言いながら僕はコーヒーのメニューを指差した。

・・・話はすぐに脱線し、いつまでも終わらない。多くの男性は、こういうことができない。私たちはみな、仕事以外で他人とつながることができないし、仕事に無関係な会話をすることができない。/『断片的なものの社会学』岸政彦